FC2ブログ

働くということ。

父がもうすぐ定年を迎える。
体力的に疲れてきたので、ちょっとだけ早めの定年だ。

以前、会社の近くで、お昼を一緒に食べた後、お散歩していたときに、もう仕事を半分以上減らしたよ、と話していた。
今どれくらいやっているの?と聞いたら、150件くらいかな、と返ってきて、びっくりした。

小さい頃を振り返ってみても、父は家に仕事を持ち帰ったことは、あまり記憶にない。
家に仕事の電話がかかってきたこともない。
もちろん、働き盛りの時は、午前様な日々が毎日続いていたりもしたけれど。

不器用な人で、自分よりも年上の人がまだ役職についていないからと、昇進を辞退したこともあった。

だから、仕事の内容がなんだったのか、私には良くわからない。
一度だけ、説明をしてくれたことがあった。
そのときも、簡単に話をされただけだったが、テレビを見ながら、あるいはお店で、「あれはお父さんの仕事なんだよ」とさした製品は、誰もが知っているものばかりだった。

仕事以外は趣味もたくさんしていたが、基本的に土日は家にいて、夕食は家で家族でみんなで食べるような、そんな父だ。

そんな父が、もうすぐ定年を迎える。
仕事を引き継ぎ、どんどん案件が減っていくのが寂しいのだろうな、というのが、言葉にしないのに感じられた。

今日が仕事納めだったらしく、早く返ってくる予定が、遅くなったので心配していたら、どうしてもと仕事を頼まれてしまったそうだ。

母と二人、涙が出るくらい嬉しかった。
父が働き手としてまだ会社から求められていることに、感動したのだ。

私も何かしら、どこかしらで働くことになったときに、辞めさせてもらえないくらい求められるように働きたい。
必要とされるような仕事がしたいと、思った。

完璧な父親ではなかったけれど(それは断言できるが)、社会人としては、父親が私の理想像だ。
スポンサーサイト



もう12月。

もう一年が終わりますな。
師走の師は坊主だったような気がするけれど、教師だったっけ。あれ。
もう私も教師から手を引いて長いけれど、未だに予定空いてませんか?という仕事依頼の連絡が来ます。
教壇に立ってしまうと、ついつい教師になりたくなってしまうから、という変な理由でもう教壇に立たないと実は決めたのでした。
私は教師になるより研究者になった方が被害が少ないだろうと以前言われたしな。

今年一年を振り返るついでに、人生を振り返ってみようと思うこの頃です。
そこで、どういう問題にどういう対処をしてきたかとか、どう逃げ出したかとかを振り返ることで、これからの対策も立てられるらしい。

ま、ゆっくりやってみます。

英語の本。

英語の本を久しぶりに(あ)がっつり読んでいる。

食わず嫌いのものがたくさんあるのだが、もちろん英語もそうだ。
やれば出来るのにやる気になれないから出来ないまま。

でもやらなきゃならないので読んでいる。
(必要に迫られる、というのが、勉強のエンジンとしては一番
 効果が高い気がする)

読んでいる内に読める自分を発見し(というかそれは自分の
「出来る」レベルの低さのせいで、ちょっとでも読めるとびっくり
するという発見なのだが)、安心するのだが、やっぱり単語とか
単語とか単語とか(そこか)わからなかったりする。

そうやって読んでいる感覚は、粘度の高い液体のなかを
必死であがきながら泳いでいる感覚に近い気がする。
その液体は、泳ぎ続けるとさらさらになっていくが、
泳ぐのを辞めてしまうとまた固まってしまう、不思議な液体だ。

この不自由さが、私が英語を学ぶさいに立ちはだかる
巨大な壁なんだな。

日本語の方が自由に泳げるから、つい日本語を使いたく
なってしまう。

実は、成長という視点から考えたらこの不自由さは欠かせない
ものだから、不自由さがある、そしてそれを乗り越えなければ
ならない、というミッションがあるということは、幸せなことかも
しれない。

そう遠くない未来、翻訳菎蒻みたいなものが実際に出来て、
言葉の壁なんかなくなってしまったら、きっとこの不自由さ
という面白さはなくなってしまう。
成長も、しなくなってしまうんではなかろうか、などと
思ったりしたのである。

痛み。

パソコンに変な姿勢で長いこと向かっていると、腰が鈍く痛くなる。

もし、これが激痛だったら、痛みを排除するために何かの対策を練ろうとするのだろうけれど、弱く鈍い痛みなので、放っておいてしまう。

弱く鈍い痛みのやっかいなところは、二点有ると思う。

1つは、痛いことがストレスになり、活動を疎外することだ。
頭の動きが鈍くなる気がするし、やる気がなくなる気がする。
そして実際やる気はなくなる(いつもだ)。

もう1つは、痛いことになれてしまうことだ。
耐えられない痛みだし、別に排除仕切れるものではないし。
だから、いいや、と思っていると、痛いことになれてしまう。
そうすると、改良や改善や成長、みたいな、何か克服する
方向へのベクトルが消えてしまうと思うのだ。

これって、身体的な痛みだけではなくて、精神的な痛みにも
同じことが言えるように思う。

常に何らかの弱く鈍いストレスにさらされていると、
そのストレスによって思考ややる気が減退し、
そのストレスを打破しようとしなくなってしまう。

たぶん、ストレスがなくなることって今の世の中まともに生きていたら
ないんじゃないかと思うけれど、だからこそ、やる気が減退している
かもしれない、とか、現状に甘んじていないか、とか、自分以外の
何かマイナスの影響力のあるものの影響を受けていないかとか、
そういうことに意識的になっている必要があるんじゃないかな、と
思ってしまう。

そうすると思い出すのは、小さい頃読んだ五分間小説というか
すごく短い短編の集まった本だ。

ある男が、知らない男に頭を傘でたたかれ続けている。
あまりに鈍くたたかれているし、いくら追い払っても着いてくる
から、放っておくことにした。
そしたら、ある日目覚めたらその傘でたたく男がいなくなっていた。
あのリズム、あの衝撃がなくなったことに、たたかれ続けた男は
耐えられなくて発狂した、みたいな話だった。

もしかしたら、私はすでにストレスのない環境では生きていけなく
なっているのではないだろうか、とぞっとするのである。

楽しいことってさ。

そういえば一ヶ月近くブログ書いてなかったなーと思う。
鬱屈する苛烈な人が大好きな某先生は、ブログに細々書いて発散するよりため込め!みたいなことを言っていたそうだから、都合のいい言い訳に利用させてもらおう。

それはそうと、すごく寒くなって来て、やっとコート三昧になれるなあ、と思う今、自分のあまのじゃくさをひしひしと感じている。

それがどんなに「いい」ことであっても、「正しい」ことであっても、それが唯一絶対のことだと信じてやまない人や、それを実行することを私に強制してくる人に、強烈な反抗心を感じるのである。

その中でも、最近特に敏感に反応してしまうのが、「楽しい」ことだ。

人生楽しまなきゃ!的なのりの人を見ると、ほほえましいなーと思っていた。
確かに、一度しかない一瞬一瞬の積み重ねである人生を大事に生きようとするのは大事だし、美しいことだと思うし、私もたぶんそうしている。はずだ。
だって、人生楽しくないことばっかり選んで生きていたらたぶん今まで持ちこたえていないはずだもの。
この場合の人生楽しまなきゃ!の楽しさには、たぶんロハスとかスローライフ的なものは含まれていない。
どちらかというと、バブリーな古き良き時代の派手派手しい、手帳が真っ黒で分刻みのスケジュール、充実しています私ー!的なハイテンションさがある楽しさだ。
楽しまなきゃ!の「なきゃ!」の部分に、息苦しさを感じてしまうのだ。
義務なの?強制なの?と。
何だか、「楽しくないこと」=「予定がないこと」に対する恐怖感すら感じているように思えてしまう。
そういう人たちに「人生楽しんでますか?」(元気ですかー的なのりで)と聞かれると、「いや、別に」と答えてしまう。
私なりに楽しいんだけど。その人の基準には則っていない気がするのだ。
(まあ、順調に高学歴ワーキングプアになりそうな将来に頭を抱えたり、締切がある仕事を見ないふりをしていることに痛みを感じたり、首根っこひっつかまれている切迫感に襲われたりしていることもあって楽しいとは言えなかったということもあるが)
そして、人生楽しまなきゃ!の人には、私のように何もしないでぼーっとする時間が多かったり、予定のない日を大事にしてしまうタイプの人が信じられないようだ。
だから、「楽しくしなきゃ!」とその人の楽しさを強要されることが多い。

そのたびに思う。

「悪いけど、ほっといてくれ」

私は「楽しく」なくてもいい。
予定で手帳が埋まらなくても良いよ。
その分の白紙には私がその日考えたことや感じたことや読んだ本や見たものや、そんないろんなことがぎっしり書き連ねてあるよ。
それで、いいんだから私は。

と、あまのじゃくに思ってしまうのだ。

いいじゃん。私、こんなでも十分楽しいよ。
充実してるよ。ふん、だ。
と思ってしまうのだ。

まあね、元々外に出て行く必要のない仕事とかが詰まっているから、予定調整より自己管理の方が必要だからかもしれないけどねー。
でもさー。

私の楽しいとあなたの楽しいが違うかも知れないことぐらい、想定してよねーと思ったりしてしまうのだ。
うん。
copyright (c) 毎日が日曜日 all rights reserved.

プロフィール

†多香子†

Author:†多香子†

今日のホームズ君

FC2カウンター

検索フォーム

QRコード

QRコード